塩山高校(夜間)定時制課程は、勤労青少年の教育の場として大きな役割を果たした。ここにその歩みの一端を紹介する。
山梨高校塩山分校時代
昭和24年4月、夜間定時制普通課程の授業を塩山小学校(現在の塩山南小)で開始。
昭和25年4月、山梨高校塩山分校(以下「塩山分校」)が塩山中学校の施設を借りて正式に開校。
(注) 塩山分校での授業開始と正式な開校日が異なる理由は、中心校定時制(加納岩校舎)の設置が分校設置よりも約1年遅れた(昭和25年3月)ことによる(山梨高校塩山分校「ともしび」7号1頁、山梨高校創立50周年記念誌57~59頁)。
昭和31年3月までの7年間に4回、計129名の卒業生を送り出した(同分校「ともしび」7号1頁)。
塩山高校時代
昭和31年4月、新入生は商業課程となる。塩山分校は普通課程のまま塩高定時制に移管された。
同年4月27日、塩山中学校から塩高校舎に移転完了。
昭和32年3月、普通科第1回卒業生32名を塩山高校初の卒業生として送り出す。

定時制商業課程1期生の商業実践授業の様子(昭和34年度卒定2回卒業アルバム)

旧三号館に整備された商業実践室での授業風景(昭和37年度卒定5回卒業アルバム)

県高校定時制総体十周年記念大会入場行進(昭和37年度卒定5回卒業アルバム)

体育館落成の翌年度創部の篭球(バスケットボール)部 県定時制選手権(昭和42年度)、県定時制総体(昭和43年度)の優勝が誇らしい(定11回卒業アルバム)

卒業を前に別れを惜しむ予餞会の様子(定5回卒業アルバム)
昭和46年12月、昭和47年度以降の募集停止が発表される。
昭和49年3月、最後の卒業式で商業科第16回卒業生8名を送り出す。同年3月末日、定時制課程廃止。残された3年生4名は同年4月山梨高校定時制へ転学措置が取られた。塩高定時制の設置から廃止まで18年間の卒業生数は348名(普通科104名、商業科244名)(同18号49頁)。
塩山分校生徒会誌「ともしび」は、塩高定時制に引き継がれ、同じ誌名で創刊号から18号まで発刊された。

学校所蔵の定時制生徒会誌「ともしび」(創刊号と第2号は所在未確認)
これは定時制の歩みを今に伝える貴重な資料である。塩高定時制最後の校長上島行夫先生の「ともしびは消えず」のお言葉(同18号1頁)のとおり大切に引き継いでいきたい。
日本一小さい株式会社
昭和31年度、商業実践の一環と購買部の役割を持つ「模擬実践商事株式会社」が設立された。株主(額面100円)は、生徒と教員。主な販売品目はノートや鉛筆などの学用品。

会社の看板を背に顧問の小林忠夫先生と取締役の生徒(昭和35年度卒定3回卒業アルバム)
毎年2月末の生徒総会終了後に株主総会を開き、取締役(生徒の代表者)が営業報告、損益計算書、および貸借対照表を提出して議決を受けた。

生徒総会の様子 終了後に株主総会が開催された(定11回卒業アルバム)
議決後、取締役の改選を行い、下級生である3年生の中から新役員を選出。新役員の初仕事は株券譲渡の手続きで、これが放課後遅くまで行われた。配当は営業状態に応じて配分され、昭和31年度末は半紙3~4枚(同17号22頁)、昭和35年度末は7円(同5号37頁)など年度によって異なった。この配当を「配当金領収書に記名・捺印して受け取った(同17号20-21頁)」との記述から、実社会を模擬体験できるように配慮されていたことがわかる。

「会社の生みの親」岩間倶太郎(ともたろう)先生の商業実践の授業(定7回卒業アルバム)
この会社は、読売新聞で紹介され(昭和34年度前後と推測される)、その数週間後には週刊誌(誌名不詳)に「日本一小さな会社が最高の配当」という見出しで掲載された。一躍、「模擬実践商事株式会社」の名は全国に知られることとなり、当時、富山県の高校から「本校でも是非やってみたい」との問い合わせが寄せられるなど注目を集めた。しかし、定時制課程廃止となる数年前に解散に至った(同17号21頁)。
山梨高塩山分校「ともしび」7号、塩山高「ともしび」5・16・17・18号、山梨高創立50周年記念誌を参考に編集